先日、和歌山にある『三尾村』にスティーブストンとの友好の証として「トーテムポール」(Darren Yelton作)が贈られるとのニュースがありました。
バンクーバーにお住いの人なら、ご存知の方が多いかと思いますが、このスティーブストンに多くの日本人が移民し、男性は「サーモン漁」、女性はサーモン缶工場で働いて生計を立てていました。(こうした様子はジョージア湾缶詰工場(Gulf of Georgia Cannery)に展示されています。)
【和歌山出身者が多い理由】
バンクーバーに永らく住んでおられる方の出身地をお尋ねすると結構な割合で「和歌山出身」の方に出会います。日本には漁港の町がいっぱいあるのにどうしてここスティーブストンには和歌山出身が多いんだろう?と不思議に思っていました。北海道、東北、静岡、高知などの人がたくさんいてもいいのでは?そんな風に思っていました。
今回のこの「トーテムポール」のニュースを読み、調べてみてその謎が解けました。
そこには一人の和歌山県出身の人物が関わっていました。その人は和歌山県、『三尾村』出身の「大工棟梁」工野儀兵衛(くの・ぎへい)氏です。
彼が1888年(明治21年)にこちらに移民をした当時の三尾村は、江戸時代こそ漁業で栄えたものの、江戸末期から明治初期にかけて漁場争いに敗れるなどした結果、三尾村民の生活は困窮を余儀なくされていたそうです。三尾村はもともと山がせまり耕地の乏しい地形で、故郷で食べていけなかったり、生活が苦しいといった事情を抱えた村民がたくさんいたそうです。1888年にスティーブストンに着いた工野儀兵衛氏を筆頭とする数名の若者が目にしたものは、スティーブストン付近のフレーザー川に「鮭が湧く」ように見えるほど川いっぱいにいる「鮭」の姿でした。これに驚くとともに、サーモン漁がまったく盛んでない状況だったことに目を付け、これなら「皆で生活していける」と、そのことを三尾村に伝え、村民に移住をすすめたとのことです。そして翌年、1889年(明治22年)から三尾→スティーブストンへの集団的な移民が始まり、そしてついに多い時には三尾出身者は2000人を越えるまでの一大勢力になったとのことです。(Wikipedia アメリカ村)
その後、恐らく三尾村の話が和歌山県の各地に伝わり、どんどん和歌山からの移民が増えて行ったのではないでしょうか。
【カナダ村ならぬアメリカ村】
サーモン漁で成功した三尾村出身者達は稼いだお金を日本に送ったり、ふるさとの三尾村に戻り、故郷に「錦」を飾り、何軒も、何軒も「洋風」の家を建てたそうです。
それを見た和歌山の人たちは三尾村を「カナダ村」、いや、何故か「アメリカ村」と呼ぶようになったとのことです。
今でもこの地区は「アメリカ村」と呼ばれており、NOP法人 日ノ岬アメリカ村の動画にて、バーチャル観光ができるようになっています。(英語版)
【三尾村へトーテムポールの恩返し】
そうした歴史を持つ三尾村ですが、1954年に三尾を含む3つの村が合併し「美浜町」になりました。しかし、その後、「アメリカ村」は時代の流れに巻き込まれ、過疎化や住民の高齢化の波が押し寄せ、小学校の廃校など暗いニュースが続きました。
そこでNOP法人 日ノ岬アメリカ村が音頭をとりこの村の過疎化を防ぐために「カナディアンビレッジ構想」(工野儀兵衛氏銅像設置、移民資料館整備、英語教育等三尾の活性化を目指す)を立ち上げ、それに賛同した日加商工会議所と工野儀兵衛氏の「孫」の高井利夫氏とでNPO法人「国際協力推進議会(CPIC)」を設立し、今回のトーテムポールの寄贈話に繋がったとのことです。
※このトーテムポール2月初旬にバンクーバーから船出し、下旬には日本に着く予定とのことです。
このトーテムポールついて 日本・カナダ TSUNAGARIの物語 にて興味深いお話が載っていますので是非ご一読下ください。
また、以下の動画は2021年1月26日。バンクーバーで、和歌山県の三尾へとトーテムポールを送り出すセレモニーが行われた模様です。「トーテムポールが無事に日本に届きますように」等のDarren Yeltonさんからのメッセージがありました。