Oct. 22th(Wednesday) a.m.11:45 @ Urban Fair in Coal Harbour コーヒーカップの気球が行き着く先は、ほんとうの自分に出逢える“空 Ku:”のせかい。
今日もまた、バンクーバーのどこかのKu:Cafeで、誰かが小さな旅に出ます。
「どうしてそんなところに座ってるの」
突然声をかけられて振り向くと、見たことのない女が立っていた。水曜日、少し早めの昼休み、コールハーバー沿いのUrban Fairでデリとコーヒーを買い、レジ横のカウンター席に腰をかけてから30秒後のことだった。フード付きの青いコートにブーツ姿の彼女は、歳のころは三十を少し過ぎたくらいだろうか。厚みのある唇につんと小高い鼻、決して大きくはないが、一瞬引き込まれるような瞳が、まっすぐに雪平を見つめている。素早く脳内の記憶を探ったが、見覚えはない。
「めずらしく晴れてるのに。外で食べない?」
そう言って女は、右手に持ったタンブラーを促すように少し上げると、返事を待たずにくるりと踵を返し、出口へ向かった。
「あの……」
困惑しながらも席を立ってしまった理由はわからない。が、肩まで届くほどの彼女の髪の、やわらかく揺れる様に好感を持った。それだけは確かだ。
三年間務めた会社を辞め、ワーキングホリデーでバンクーバーに来て半年。小さなプリントショップでの仕事と、気が向いた時に顔を出す語学サークルの集まりの他には特にすることもなく、水に浮かぶような毎日を過ごしていた。東京での営業職がつらかったわけでも、追いたい夢があったわけでも、ない。ただ、スーツにネクタイを締め、笑顔を張り付けてひたすら歩き、その繰り返しの日々の中、そびえ立つビルの群れは巨大な壁のように見えた。それを見上げるたび、意識の底に降り積もる澱、視界を白く閉ざす故郷の雪から逃れようと東京へ向かったように、その澱がまた、雪平をバンクーバーへと向かわせたのだった。
交差点を渡るとすぐに公園があり、樹々の緑の向こうに海が見える。さわさわと揺れる葉っぱの一枚一枚が陽光を受けて光っている。眩しそうに手をかざしながら歩く、名前も知らない女。その背中を、今自分は追っている。雪平の心の内を知っているのかいないのか、彼女はふいに振り向き、言った。
「Urban Fairのコーヒーって、意外といけるよね。ソイラテにしたって2ドルちょっとなのに、わりといい味してるんだよ」
ごくり。白く細いのどを通る液体が、アメリカーノなのかソイラテなのかはわからない。返す言葉を選んでいるうちに、彼女は陽当たりのよいベンチを選んで腰かけ、振り返って微笑んだ。その微笑の先に広がるのは、バンクーバーハーバーだ。向こう岸には、ノースバンの山々が青空の下で憩っている。ハーバー沿いには遊歩道が設けられており、歩く人、走る人、自転車に乗る人、様々な人々が行き交う。彼らはどこに行くともなく、ただその時間を楽しんでいるように見える。彼女は肩に掛けたバッグから小さな包みを取り出した。ジップロックに入ったサンドイッチには、ポテトサラダが挟まれている。雪平は一瞬ためらった後、隣に腰を掛けた。
「あの、バンクーバーは、長いんすか」
サンドイッチにかじりつきながら彼女は、さあ、とでも言うように首をかしげた。もぐもぐと口を動かしたまま、答えはない。雪平は仕方なく、脇に抱えていたデリの箱を開けた。チキンとアボカドのパスタ、サイドにガーリックトースト。わりと気に入っているメニューだったが、隣のサンドイッチが妙に美味そうに見えた。
「それ、うまそうですね」
「ん? ありがと。でも、あげないよ」
なんなんだ、この人は、と思いながらも、不思議と嫌な感じはしない。雪平は少し冷めてしまったガーリックトーストをかじった。
夏が終わった後のたまの晴れの日は、日差しは強くても風が冷たい。サマータイムが終ったら一気に冬へとまっしぐらだ。太陽を浴びておけるうちに浴びておいたほうがいいと、誰もが言う。このひとが自分を、薄明るいカウンター席から外へ連れ出したのは、そういう理由なのだろうか。いや、単なる変な女の気まぐれ? 最後の一口を大切そうに口に運び、彼女は丁寧にそれを味わっていた。ものを食べる時の女は、どんな瞬間よりも幸せそうに見える。
名前は? 住んでいるところ、職業は? そんな質問は意味がないような気がして、雪平は黙ってパスタを食べ続けた。知らない女が隣でコーヒーを飲みながら、満足そうに息をついている。そう、それだけだ。でも、悪くない。
黙ったまま、二人は隣り合って海を眺めていた。遠くに浮かぶ巨大なコンテナ。向こう岸の山の斜面に並ぶ家々。山の頂にかぶる雪と、それと戯れるように流れては消える雲。
(このひとの言う通りだ)
まだ熱すぎるコーヒーを口に運び、雪平は思う。
(こんな景色が “ここ” にあるのに、どうして俺は “あんなところ” に座っていたんだろう?)
コールハーバー周辺は仕事場が近い事もあり、時々雪平も足を運ぶ。それにしても、ピーカン照りの夏の午後でさえ、今日のように目の前の景色を眺めたことはあっただろうか? タンブラーを胸に抱えたまま、彼女はじっと景色を見つめている。見つめている風景とひとつになって、ただそこにいる。
どこからかエンジン音が聞こえる。海の方からだ。ヨットが並ぶハーバーの右手方向には Water Airport があり、水上飛行機の発着所となっている。海から飛び立つ小さな飛行機たちは、通りかかる人々へのちょっとしたショーのようだ。
「見て、もうすぐ飛ぶよ」
尾翼に青い鳥が描かれた小型飛行機が、水面をすべっていく。ゆっくりと、しかし次第にスピードを増しながら、エンジン音は激しくなる。水しぶきが白い軌跡となり、機体を追うようにして海の上を走っていく。波と唸りが最高潮に達すると、一瞬、空っぽになる瞬間がある。音は消え去り、まるで何かから解き放たれるようにして、機体はふわりと宙に浮き上がる。
そこからはあっという間だ。飛行機はみるみるうちに水面から離れ、まっすぐに山の向こうへ消えるかと思うと、その美しい翼を地上に誇るかのように、大きく弧を描いて旋回する。そうして色づき始めたスタンレーパークの森を飛び越え、やがて山々の稜線の彼方へと消えていく。鳥が、それに続くようにして数匹、同じ方向を目指して翼をはためかせる。
雪平は、空に溶けて見えなくなった飛行機から目をそらせずにいた。コーヒーカップを持った手が、なぜだか少し震えていた。
「飛行機が飛ぶ原理って、科学的にはまだ証明されていないんだって」
「え、そうなんだ」
雪平は我に返って彼女を見た。視線を空に留めたまま、彼女は言う。
「そう。でもああやって飛んでいる。毎日、世界中で、たくさんの飛行機が」
タンブラーの蓋をパチンと開け、一口飲む。それから雪平をまっすぐに見つめて、聞いた。
「ねえ、どうして飛行機は飛ぶのだと思う?」
「どうしてって……、えと、エンジンとプロペラと、あと確か場力とか浮力とか、そういう原理じゃなかったっけ」
「自分が飛べないって、ひとかけらも疑っていないからだよ。だから飛べるの」
……何を言っているんだ。飛行機が、そりゃあ自分を疑ったりはしないだろう。鉄の塊なんだから。一瞬、そんな想いが脳裏をかすめたが、言葉にする前に消えてしまった。その代わりに、長い間忘れていた、ある温度、熱のようなものが、雪平の胸の辺りに生まれ、静かに広がっていくのを感じた。
「鳥も、昆虫もそう」
「人間も?」
雪平は聞いた。
「もちろん」
「ほんとかな」
答えないまま、ただ微笑む。最初に振り返った時に魅きよせられたその瞳が、そこに湛えられた水が、鏡のように反射し、雪平を写し出していた。
「きみが、飛んでみせたら? 思っているより、ずっと簡単だよ」
彼女は立ち上がり、両手を空にかざして伸びをする。
「じゃあね」
少し笑って手を振ると、タンブラーを抱え、そのまま背を向けて歩き出した。海からの風が頬をなでる。同じ風が彼女の髪を優しく揺らすのを、雪平はただ見つめていた。もっと声を聞いていたい。いつの間にかそう思っていたことに、今気が付いた。でも、引き止める言葉は出てこなかった。
ベンチに座ったまま、雪平は待機中の飛行機を見つめた。もう一度、飛び立つ瞬間を見たいと思った。水面に並ぶ飛行機達は翼を休めたまま、どれも動こうとはしない。
雪平は立ち上がり、彼女がそうしたように、ひとつ、のびをした。風が通り過ぎ、頭上に茂る樹々の枝に触れていった。木漏れ日の向こうにそびえる、幾つもの高層ビル。その巨大な体に空を写す摩天楼の群れさえも、次々と飛び立つ小さな飛行機たちを、愛おしく眺めている。それは雪平にとって、もう壁ではなかった。手の平に包んだコーヒーの熱を感じながら、雪平は歩き出した。