Aug. 30th a.m. 00:15 @ Breka Bakery
コーヒーカップの気球が行き着く先は、ほんとうの自分に出逢える“空 Ku:”のせかい。
今日もまた、バンクーバーのどこかのKu:Cafeで、誰かが小さな旅に出ます。
満月の夜はたいてい眠れないので、ベッドから抜け出し て通りに出る。ネオンが消えた午前0時のRobson street に、さらさらと小雨が降っている。 24 時間開いているBreka Bakery は、真っ暗な海に浮かぶボートの灯り。どこで眠れば いいのかわからずに難破した人々が、ひとときの甘さや温もりを求めて打ち上げられている。わたしもその一人。ショー ケースに並ぶ色とりどりのケーキの中から、毒々しいチェリーを乗せたBlack Forest と、ダブルショットのエスプレッ ソをオーダーし、テラス席に出た。
夜の色を映した樹々が、雨に濡れながら歌っている。夢の ようにかすかな調べを聴きながら、砂糖を流し込んだエスプ レッソを飲み干した。少し先の席に、一人の男が座っている。 テーブルの上にはエスプレッソのカップと小さなサイン。目 を凝らすと、「Henna Tatoo」とあった。よく陽に焼けた肌 と長い手足。闇が濃くてよく見えないその横 顔。ずっと眺めていたいと、瞬間的に思った。 「Henna、やってるの? こんな真夜中に」。Black Forest にフォークを入れ るふりをして、聞いた。 「必要なひとがいれば、 真夜中でも、いつでも」。 微笑んでいるようだっ た。もっと近くで見てみ たい。深海に咲く美しい 珊瑚に引き寄せられるみ たいに、立ち上がって隣 に座った。「必要かも、今」。光をよく湛えた、 切れ長の目。彼は足元の大きなバックパックからヘナのコー ンを取り出し、夜にかざした。「何を描こうか」。「何でもいい。あなたの目に映るものを」。切っ先が、わたしの左鎖骨に 添えられた。「雲に隠れて今は見えないけど、満月に聞いて みる」。伏せられた睫毛の下の眼光が、皮膚を、骨を、筋肉を、 そのもっと奥を、透かして見ている。セロファンに包まれたヘ ナペーストが、肌の上に降り立った。チョコレートソースの ような色と、冷たい感触。迷いなく走る線が、何を描こうと しているのかはわからない。でも彼には” それ “が見えていて、 香りや音楽のように、目に見えないものの気配を、” 今ここ “ に留めようとしている。そんな気がした。名前もまだ知らないひとの額が、すぐそこにある。唇が触れそうなほど近くに。 不思議な香りがした。ヘナの匂いなのか、彼の髪の匂いなの か。軌跡は途切れずに流れていく。「いつも来てるの? ここ。 こんな真夜中に」。流線から目を逸らさずに彼は聞いた。
「うん、眠れない時は」。「眠れないのにエスプレッソを飲むの」。筆致は迷うことなく続く。「眠れないから、せめて、目を醒ましたまま夢を見るの」。一瞬だけ手を止めて、彼は顔を上げた。「チョコレートケーキも素敵だけど、どうせなら、醒めない夢を見た方がいい」。憐れみとも、慈愛とも違う、静謐な微笑みがそこにあった。「夢は醒めるし、現実は続く。だから時々、チョコレートケーキが必要なの」。彼は笑って、「そうだね」、そうしてまたわたしの肌へ帰っていく。そうだね。いや、そうじゃない。知ってる。でも、どうすればいいのかは知らない。知らないまま、ただ昼と夜を彷徨っている。でも、今は違う。
彼の指が絞り出すヘナが、肌に触れ、皮膚を超えて、細胞に染み込んでいく。それは肉体を交わし合うよりもずっと密な感覚だった。いのちを吹き込むように、描かれてゆくもの。夜は時を止めて、わたしたちをどこでもない場所へ隔離した。流れ込んでくる。そして流れ出していく。温度が重なり、やがてひとつになる。醒めないで欲しい。それは、誰の願いだったのだろう。
ほんの瞬き、それとも永遠に近いほど長い間。気がつくと、左の鎖骨に大輪の花が咲いていた。満月の夜にだけ開く花。描かれた流線は肌の稜線とひとつになり、月光に映し出された花弁となって踊る。「雨、やんだみたい」。顔を上げると、ヘナで染まった指先の向こうに満月が浮かんでいた。わたしたちは微笑み合った。生まれる前から知っているふたりのように。「ありがとう」。ヘナが崩れないようにそっと、でも強く、ハグをした。彼もまた、回した腕に力を込めて言った。「こちらこそ、ありがとう」。腕をほどいて向き合った時、わたしが口を開く前に、彼は言った。「いつでも、また。地球のどこかにいます」。
その夜は、とてもよく眠れた。Black Forest を食べ忘れたことに、目が覚めてから気がついた。
それから何度かBreka に行ったが、彼に会うことはなかった。鎖骨の上の月下美人は少しずつ薄れ、やがて消えてしまった。でも、肌の奥に刻印された何かは、消えることはない。あの満月の夜、彼が吹き込んでくれたもの。”今“ という瞬間にだけ咲く花。それは、どんな夜の下でも、どんな闇の底でも、誰の中にも、必ず咲いている。きっとまた、眠れない夜もあるだろう。でも、エスプレッソとチョコレートケーキは、もういらない。