Ku Cafe #007 Rena

Mar. 18th p.m. 21:30 @ Tangent Cafe on Commercial dr.
コーヒーカップの気球が行き着く先は、ほんとうの自分に出逢える“空 Ku:”のせかい。
今日もまた、バンクーバーのどこかのKu:Cafeで、誰かが小さな旅に出ます。

 今年の冬は雪の代わりに雨ばかり降った。雨があがる たびに春のにおいが濃くなる。桜のつぼみがもう膨らんでいる。鈍色の世界に、少しずつ色が蘇るこの季節が好きだ。頭上に、足もとに咲く、生まれたての色。枝先に宿る新芽。R190G240B80。目を覚ましたばかりのクロッカス。R200G190B90。どんなに艶っぽい生命の色も、わたしの頭の中ではアルファベットと数字の組み合わせに変換されてしまう。デザイナーの哀しいサガだ。Red、Green、Blue、光の三原色。Mac の画面の中にクライアントが望む世界を創造しな がら、葛藤する。
 ” わたしがほんとうに描きたいものは何?“ 。
 それは3つの数字の組み合わせではきっと表現できない。その瞬間だけが映す光のようなもの。いのちの気配。グローサリーの軒先でオレンジを手に取った。R240G170B40。ふと、 背後に気配を感じて振り返ると、見知らぬ少年がニコニコしながら立っていた。少年、と言っても、19、ハタチすぎくらいだろうか。埃まみれのデニムに、元の色が分からないほどに褪せたパーカー。今にも壊れそうなボロボロの自転車を、ま るで大きな犬のように大切そうに連れている。「Hi」ハンドルを握ったまま少年は言った。「ここ、よく、来るの?」 妙にたどたどしい言葉。句読点のたびに上下左右する体。極度にシャイなのか、単にハイなのか、わからないけど、目がとてもキレイだった。「うん、オーガニックの野菜が安いから」。ニコニコが、向日葵みたいにぱあっと咲いた。「そうだよね! 僕もそう思う!」それから彼はものすごい勢いで自分がいかにこの店とこの周辺を愛しているか、というようなことを話しはじめた。
 あまりにも早口なのと、独特のイントネーションとが混じって、異国の音楽のようだった。「通りの向かいからきみを見つけたから」とめどない音楽が言葉に戻った。ピリオドの代わりにギュッと口角を上げてから、彼は言った。「きみの、好きな色を教えて?」。好きな色?Pantone の333、と言うかわりに「珊瑚がよく似合う、透明な海の色」と答えると、またもう一段笑顔の明度と彩度が上がった。「OK!」と叫んでサドルにまたがり、彼はあっという間に走り去ってしまった。笑顔の気配だけが、チェシャ猫のようにその場に残った。なんだったんだろう。でも、コマーシャルドライブではよくあることだ。つられてちょっと微笑みながら、店に入って買い物を続けた。ブラウンライス、瓶詰めのオリーブ、マスタードシード。すっかりいっぱいになったカゴを抱えて陳列棚を抜けると、さっきの少年が息を切らせて立っていた。「きみに」右の袖をまくりながら彼は言った。見ると、手首から肘の裏あたりにまで、絵の具で色が塗りたくってある。淡いグリーンと物憂いブルーの間の子。急いで何度も筆を重ねたのか、色の欠片が手の平や袖口に飛び散っていた。「きみに、この色をあげたかったんだ」。彼の目は、底のない湖みたいにどこまでも澄んでいた。ああ、これが彼のいのちの色だ。そしてそのいのちが今、わたしに分けてくれた色。静脈と動脈の珊瑚が絡み合う、海そのも。「ありがとう」。彼は少し誇らし気にうなずくと、相変わらず笑顔のままで去っていった。レジに立ち、さっき見たばかりの2つの色を想った。底なしの湖と珊瑚の海。どうしても、いつものようにアルファベットと数字に変換できなかった。

ku03

原田章生: 愛知在住、絵描き/音楽家。 http://homepage3.nifty.com/harada-akio/

  その週末の夜、Tangent Cafeに行った。雨が降っていた。いつものように壁際の席でモヒートを飲んでいると、暗い照明の下から浮かび上がるように、音楽が始まった。たいていトリオのジャズが多いのに、今夜の演奏者は一人だ。カホンとパーカッション。どんな音楽のジャンルにも当てはまらない、一見デタラメな音とリズム。でも絶妙のタイミングで、完璧にひとつになる瞬間があった。思い出したように時々入るボーカルはどこの国の言葉かわからないけれど、妙に懐かしく体に響いてくる。演奏者の腕が一瞬、宙に翻った。柔らかな皮膚の上に塗りたくられた色が、ライトに反射した気がした。ステージの上にいるのはあの時の少年だった。透明な海の色を残したまま、果てしなく嬉しそうに全身に熱をたぎらせて、彼は宇宙の音を地上に降ろす精霊のようだった。瞬間ごとに生み出される音と振動が、名前のない色となって弾けては飛び交い、空間を満たしていく。モヒートを一口飲んだ。ミントとラムが、見たことのない色に染まって咽喉を流れている。彼が奏でる音の軌跡が、そこにあるすべてを飲み込んで美しい渦を描く。目を閉じた。雨がやんだらまたもうひとつ春になる。夜に浮かぶ桜や木蓮のつぼみ。この音楽が終わる頃には、そんないのちの色をただまっすぐに味わえる気がした。


佐々木 愛

佐々木愛: バンクーバー在住、ことばのお仕事師。http://www.lovelyoreo.com/

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