Jan. 20th a.m. 7:30@ Bel Cafe on Georgia st.
コーヒーカップの気球が行き着く先は、ほんとうの自分に出逢える“空 Ku:”のせかい。
今日もまた、バンクーバーのどこかのKu:Cafeで、誰かが小さな旅に出ます。
ニューイヤーズイブが明けて3週間が経とうとしている。サンクスギビングから続いたホリデーシーズンの気配はすっかり消えて、街はすっかり通常営業だ。バイト先のドーナツ屋の紙コップもいつものデザインに戻ってしまって、なんだかつまらない。年が明ける瞬間だけは、いつも変われる気がする。友人の家でしこたまワインを空けた後、酔っぱらってとろけた視界に映る、N.Y.のタイムズスクエアのカウントダウン(時差があるから録画放送だけど)。紙吹雪と音楽とイルミネーションにまみれた群衆が、熱狂的に新しい一年を祝福している。イーストサイドの小さなアパートで友人達とひしめき合いながら、わたしだって、同じ熱狂でもって、新しい自分を祝福したはずなのに。去年のわたしと今年のわたし、何かが変わっただろうか? 考えてみたらいつもそうだ。目の前に、本当の自分がいるような気がして、それを捕まえるために、手を伸ばす。でも何を始めても、こうしてカナダにやって来てさえ、“本当は何も始まっていない” ように思う。毎日笑っているはずなのに、そのうちに自分が何を探していたのか、わからなくなってしまう。
朝のシフトの前に、『Bel Cafe』に寄った。早朝は意外と人が少なく、通りが見えるソファ席が空いている。コートを脱いで、カウンターに向かう。クロワッサンがとても美味しいけど、今日はアーモンドミルクのチャイとマカロン。ピスタチオ、ローズ、ラベンダー。ガラスケースの中で、行儀よく並んでかしこまっている、淡い色をまとったマカロンたち。わたしは、何色になりたいのかな。こうやってかわいく染まって待っていたら、誰かがいつか、わたしを選んで、どこかへ連れてってくれるのだろうか。
チャイのカップと、小さな木製のボードに乗せられたマカロンを受け取り、テーブルに戻る。Georgia streetには、まだ明けたばかりの一日の神聖さが残っていた。あと一時間もすればそれも、行き交う人々の気配に埋もれてしまうだろう。カップを手の平で包む。温度。スパイスのにおい。数時間後には、こうして今感じていることを忘れてしまう。向こうの席で老人が一人、新聞を広げながらコーヒーを飲んでいる。“いつも”を積み重ねて、いつのまにか、“人生”というものになるらしい。だとしたら今、何を選べばいいのだろう?
マカロンを一口かじった。サクサクと表面の殻が割れ、花の蜜を閉じ込めたクリームと交り合う。頭蓋骨に響く音も、その頭蓋骨に包まれた脳をやさしく揺さぶる甘さも、小さな音楽のようだった。さっきまでガラスケースの中で並んで、“何かが始まる”のを待っていたマカロンが、わたしの中に溶けていく。ひとつになっていく。
あ、そうだ。
太陽があと何千回か昇って、沈んだら、わたしもいつか、肉体という殻を抜け出して、宇宙に溶けて消えていく。いや、消えるんじゃない。大きな“ひとつ” に、ただ還っていく。静かにこのからだを流れているマカロンのように。だから、その前に、わたしがただ一個の“わたし”であるうちに、目の前にやってきたことを、ぜんぶ味わおう。それはきっと、楽しいことばかりじゃない。でも、まるごとすべてを、感じよう。それは、かみさまにさえ邪魔できない、わたしにしかできないことなんだ。今こうして、小さなマカロンを味わっているわたし。そして、それをどこかで見ている宇宙もまた、バンクーバーという街に灯るこのささやかな人生を、無数の銀河の舌の上で、愛おしく感じているのだ。
交差点の向こうのビルが太陽を反射して、通りを行き交う人々を黄金色に輝かせている。世界はこんなに美しいし、愛されている。ドーナツ屋の喧噪のさなかではそんなことをすっかり忘れてしまったとしても、また必ず、そう思える瞬間がある。その瞬間に支えられて、進んでいく。その繰り返し。そうしていたら、きっと、何色にでもなれる。探さなくてもいい。決めなくてもいい。“今”と、ただ愛し合っていればいい。その過程で味わう、悦びも、苦しみも、マカロンの甘さも、無限大の色と光になる。その色と光で、わたしにしか描けない絵を描こう。
コートを羽織って席を立つと、新聞から顔をあげた老人がウインクした。微笑みを返しながら、決めた。今日もきっと、バイト先のドーナツは食べないけれど、それを買いに来てくれた人すべてが幸福であるように、同じ笑顔で手渡そう。祈りをこめて、愛をこめて。外に出ると息は白く、一瞬で鼻が凍りつきそうなほどだった。でも、バラ色をしたマカロンが、確かに、皮膚の下であたたかく咲いていた。