Oopsでクッキングを教えてくださっている、チャーミングな清水なおみ先生。86 歳の現在もパワフルにご活躍中です。先生の周りにいると、誰もがとても温かい気持ちになってしまいます。“ 清水なおみさん” ってどんな方なんでしょう?
移民船・氷川丸でカナダへ
1958 年(昭和33 年)、日本で出会って結婚した日系カナダ人の夫、ジョージ・昭三さんの故郷で暮らすため、なおみさんはカナダに渡った。当時は海外渡航が容易ではなく、カナダへの移住は決死の覚悟だった。
横浜港から氷川丸に乗り、2 週間の船旅はひどい船酔いとの闘い。「船員さんにね、『あんたはええなあ。わしは、酒飲んでもよう酔えんのに、あんたは酒飲まんでも酔える』って言われてね( 笑)」。
1958 年11 月16 日、26 歳のなおみさんは、スーツケースをたったひとつ持ってバンクーバーに降り立った。ダウンタウンにある高い建物は、ホテルバンクーバーだけだった。
辛さをバネにして前進!
見知らぬ土地で寂しさに涙を流す夜もあったが、いつでも前向きななおみさん。「英語がまったくわからなくて。買い物に行って欲しいものが見つけられなくても、店員さんに聞けなくてね。ラベルを持って行ってお店を探し回り、やっと見つけてニッコリ。これを“ 微笑みショッピング” って呼んでいたのよ。(笑)」。カナダに来てすぐに、運転免許が必要だと感じた。「筆記試験の英語がわからないでしょ。でも、mayで始まる問題は〇、mustは×だと先輩の日本人に教えもらってね(笑)」。
あとは丸暗記と勘で、見事合格。何ごとにもチャレンジ精神で取り組む。
職探しも困難で、生活は楽ではなかった。家政婦、仕立物、レストランのキッチンヘルパーなど、何でも一生懸命にやった。「ボール1 杯のエビの皮むきで85 セントもらう。そんな時代だったのよ」。
「日本で食べていたシュークリームが食べたい! お饅頭が食べたい!」と、試行錯誤しながらレシピを研究し始めたのもこの頃。現在のように日本食品が手に入らなかったからだ。
Naomi’s Café での25 年間
「“ お客さんの笑顔があふれるレストラン” を持ちたい!」という夢をずっと持っていた。娘のジョアンさんが12 歳になり、本格的にレストラン開店を考えた。「資金もない、英語もできないでしょ。あちこち回った末、ある銀行で『担保はあなた。ナオミの人柄を信用します』と担保なしで5,000ドル融資してもらえることになったんです」。そしてNew Westminster 市の築96 年の古い店舗にめぐり逢い、Naomi’s Café をオープンした。
スープからパン、ポテトチップスまで、すべてホームメイドの食事を提供するNaomi’s Café の評判は口コミでどんどん広まっていき、カフェはいつしか常時満員の行列のできるレストランとなった。「はじめはね、マフィンも作ったことがなかったの。お客さんに試食してもらって、みんなの感想を聞いて改良を重ねていってね」。お客さんと一緒に作りあげていった“Naomi’s Café の味” は、地元のカナディアンに“ お袋の味” として慕われ、なおみさんの人柄と共に多くの人々に愛された。商店街の仲間はもちろん、市長、裁判官、銀行のマネージャー、牧師、日本人留学生など、カフェはいつでも笑い声にあふれていた。
それぞれの好みからコーヒーに入れる砂糖の数まで覚え、一人ひとりと心を込めて付き合ってきた。お客様は、大切な友人であり家族だった。
25 年続いたNaomi’s Café は、店舗の老朽化により惜しまれながら1996 年11 月8 日に閉店。最後の日には、100 人を越える人々が訪れてなおみさんの長年の働きをねぎらった。
“ 料理家・清水なおみ” として
カフェ閉店後、抜け殻のようになったなおみさんは、娘さんの勧めでケーキ・デコレーションを習うことにした。School Board のクラスに通ううちに、なおみさんの経歴を知った担当者に「あなたが教えるべきだ」と勧められ、School Board のクッキングクラスを受け持つようになった。“ 料理家・清水なおみ” としての人生の始まりだ。日系センターで11年、桜風会の『男子厨房に入ろう会』で5 年、クッキングクラスにはたくさんの人が集まった。夜の時間帯のクラスでは、生徒さんたちのお腹がすくだろうと、まず手作りの夕食を振舞ってからスタート。若い娘さんに夜道を帰らせるのが心配で、それぞれを車で家まで送り届けるという、なおみさんならではの楽しいクッキングクラスだった。生徒さんたちに受け継がれたなおみさんの料理とハートは、それぞれの場所でまた誰かを幸せにしていく。その他、日本領事館の交流プログラムでカナダの高校生にお寿司の作り方を教えたり、日系テレビICAS で料理番組(4 年間)を受け持った他、Coco Mgazine、Oops! などの日系メディアで長年にわたってレシピを紹介すると共に、バンクーバーのローカルテレビや新聞でも取り上げられている。
パート2に続く