”カナダ”ってどんな国? その1  

「どうしてカナダには色々な国の人がいるの?」、「なぜ公用語が2つ?」カナ
ダで暮らしていても、意外と知らないことがある。
“人種のモザイク”と呼ばれるカナダは、どうして現在のような形になってきたの
だろう? 歴史を知ることで、そこからまた新しい「カナダ」が見えてくる。
ダイジェスト版カナダ史を、ちょっとひも解いてみよう。

10
 最初にカナダに足を踏み入れたのは、誰か?   
1万2,000 年くらい前に、アジアの狩猟民たちが、ベーリング海峡を渡り北アメリカ大陸に上陸した。この人々が、カナダの先住民の起源だと言われている。西暦1000 年頃には、Leif Eriksson 率いるバイキングたちが暮らした集落跡が、ニューファンドランドで発見されている。  
 1497 年、英国王から派遣された探検家のJohn Cabot が東海岸に上陸し、ニューファンドランドをイギリスだと宣言したのを始まりに、16 ~ 17 世紀にはヨーロッパ人のカナダ進出が始まった。
 1534 年、フランス人探検家のJacques Cartier は、セントローレンス湾流域に到達、この地域を“Kanata”と呼んだ。

24Jacques Cartier を道案内した2人のインデイアン青年がいた。彼らの使った“Kanata”は、彼らの言葉で「村・村落」という意味だったんだけれど、それがそのままCanada の語源になったんだね。面白いのは、Jacques Cartier は、インデイアンの言葉のわかる通訳を連れて行ったそうなんだ。つまり、その人物はJacques Cartier よりも前にカナダに行っていたから、通訳ができたわけだ。“歴史”というのは、書き残された部分だけが語られるけれど、本当はもっと違う面があるということを忘れてはいけないね。

 1608年には、Samuel de Chapman(仏)がケベックに要塞を築き、“ニューフランス”と名づけて植民地経営を開始した。  
 1610 年に、Henry Hudson(英)は、ハドソン湾・ジェームズ湾に至る内陸部まで到達した。この航路の発見が、毛皮貿易をますます促進することとなった。

24過酷な航海に不満を募らせた船員たちの反乱が起こり、Henry Hudson は、小船で置き去りにされて、そのまま行方知れずになってしまったそうだよ。探険家も大変だよね。

9 3  
 17世紀、ヨーロッパのファッション業界で需要が非常に高かったビーバーの毛皮。先住民たちの狩猟の技術に目をつけたフランス人たちは、インディアンとの毛皮貿易に力を入れた。インデイアン側でも、金属や銃・布・タバコ・酒などのヨーロッパの物資を手に入れられるので、貿易に積極的だった。

24カナダに来たフランス人たちの多くは、先住民と結婚した。その子孫は“メイテイ―”(Metis)と呼ばれているんだ。ひとつの民族のカテゴリーとして、今もその子孫が暮らしている。

 一方イギリスは、1670 年にハドソン湾会社(Hudson Bay Company)を設立。インデイアンとの毛皮貿易を開始し、ハドソン湾地方~カナダ西部の内陸にも進出していった。国家に後押しされたこの会社は、この後100年以上もの間、カナダの毛皮貿易を独占することとなった。(ずっと後の1783 年に設立されたNorth West Company が、唯一の競合会社となるが、 1821 年に両社は合併した。)  
 フランス、イギリス、先住民は、それぞれカナダの違う地域で暮らしていくようになった。イギリスは、ニューファンドランド・ノバスコシア・ハドソン湾地域に、フランスは、セントローレンス川・五大湖地域に進出した。
 先住民たちの各部族は、イギリスかフランスのいずれかと同盟を結んでいった。イギリスは、先住民のバンド(村議会)との間に契約を結んで領土を拡大していったが、これらはたいへん不平等で、広大な土地の権利を譲渡するのに、先住民はわずかな金額を受け取るだけ、というようなものだった。

24こうして、英・仏間の抗争が、だんだん激しくなっていくんだよね。17 世紀頃からは、カナダの土地はイギリスとフランスの領土争いの場となっていったんだ。

   英・仏の争いは、長い間続いていた。一時は、フランスの植民地“ニューフランス”が北米大陸の1/2以上を占めるほどだったが、経済力の強いイギリスが次第に優勢になっていった。
 1763 年にパリ条約(The Treaty of Paris)締結。長年に渡る英仏戦争が終結し、フランスの植民地であった地域が、イギリスに割譲された。

24フランス系の人々にとって、ブリテイッシュ・ルールの中で暮らすことは、Unhappy だったんだね。1774 年の“ケベック法”(The Quebec Act)により、ケベック地域のフレンチ系の人々のフランス語使用やローマカトリック信教の自由が公認された。イギリスがフランスを征服したように言われているけれど、ちゃんとフランスのやり方を保障していたんだ。

7
 1775 年~ 1783 年には、アメリカでは独立戦争(American War of Independence)が起こっていた。この戦争の後、イギリスを擁護した王党派(Loyalists)の人々・約4万人が、アメリカから入植し、カナダ東部(ノバスコシア、ニューブランズウィック、オンタリオなど)に定住した。
11  
 アメリカとカナダの国境付近では、アメリカ人とカナダ先住民との小競り合いが続いていた。ついにアメリカが「カナダを占領する」と宣戦布告して始まった英米戦争(War of 1812、1812 年~ 1814 年)は、“イギリス+カナダ+イギリスと同盟を結んだ先住民” VS “アメリカ合衆国“の領土戦争だったが、米軍の進行はカナダ側に阻止され、1814 年のガン条約(The Treaty of Ghent)により、アメリカと英国領カナダとの国境争いは停戦となった。

24アメリカとカナダは、違う歴史と文化を持った国だということだね。もちろん、僕はカナダに生まれて良かったと思っているよ!

その2 に つ づ く

12


こんな記事も読まれてます。