1867年7月1日、英国議会が『英領北アメリカ法』(The BritishNrth America Act/Constitution Act)を制定し、イギリス政府から独立した“自治領カナダ政府”(The Dominion of Canada)を成立させた。“自治領カナダ”は、オンタリオ、ケベック、ニューブランズウィック、ノバスコシアの、4州だけだった。
→この後、マニトバ州(1870年)、ブリティッシュ・コロンビア州(1871年)、プリンス・エドワード・アイランド(1873年)、サスカチュワン州・アルバータ州(1905年)、ニューファンドランド(現在のニューファンドランドおよびラブラドール 1949年)が加入。1870 年にHudson Bay ompany より買収したノースウェスト準州より2つのテリトリーが分かれ(ユーコン準州 1898年、ヌナブト準州 1999年)、現在の10 州と3準州の形となった。
この日(7月1日)をカナダ建国の日として、Canada Dayとしたわけだね。それぞれの州も、様々な歴史を持っているんだよ。
1896 年、それまでほとんど人の住んでいなかったノースウェスト準州のKlondike で、金が発見された。このため、一攫千金を夢見た何万人もの人々がKlondike に押し寄せた(クロンダイク・ゴールドラッシュ)。雪崩や栄養失調などで命を落とした人も多くいたが、ゴールドラッシュ後にここに定住する人も出てきたので、この2 年後にこの地域は、ユーコン準州として認められるようになった。
1841年以降、20 年あまりの間にカナダの人口は、110万人から250万人へと爆発的に増加した。人口増加の主な理由は、移民の数の増加である。飢饉を逃れてきたアイルランド人や、アメリカの奴隷制度を抜け出してきた黒人など、毎年何千人もの移民がカナダを目指してやってきた。
1869年、カナダ政府は移民法(Immigration Act) を制定して、積極的に移民を受け入れるようになった。
移民のピークの1913年には、40万人以上の移民(主にヨーロッパ系の移民)がカナダに入国したんだよ。こうして、カナダは成長していったんだね。
1885 年、カナダ大陸横断鉄道(1881年に着工)が、ついに完成。これにより、大西洋側と太平洋側の行き来ができるようになり、カナダの西と東の州がひとつに結ばれるという、大きな役割を果たした。
大陸横断鉄道の建設を条件に、BC 州はカナダ連邦に参加することに合意したんだ(1871 年)。この鉄道建設がなかったら、BC州はカナダに入っていなかったかもしれないね。
1914年、第1次世界大戦が勃発(~ 1918 年)。カナダは大英帝国の一員として参戦した。多くの犠牲者を出した戦争だったが、この結果、国際的にも認められるようになり、自立意識も高めることになった。
ロイヤルカナディアン軍・医療部隊の医師であったJohnMcCrae 中佐は、大戦中の最悪の激戦地だったベルギーのフランダース地方の戦場跡に咲いた赤いポピーを題材にして、“In Flanders Field”というポエムを書いた。ここから、11月11日の Remembrance Day のシンボルは、赤いポピーになったんだ。戦争で亡くなった人を思い、平和を考えるための大切な日だ。
1931年、英国議会はウェストミンスター法(The Statute of Wetminster)を制定。これによって、カナダはイギリスから完全に独立した国家となった。1939年、カナダはドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦に参戦(~ 1945 年)。この戦争の結果、工業製品などの需要が増え1930年代の世界恐慌による大不況から経済が復活した。また、カナダはこの2つの大戦を通して、“イギリス寄りの国”から北米の国家へと変化。新しい時代の幕を開けることになった。
カナダは、移民によって成長してきた。現在カナダには、200 以上の民族が共に暮らしている。1869 年に初めての移民法が制定されたが、イギリス・ヨーロッパ・アメリカからの移民に比べて、アジア系人種の移民には制限があった。
1967年に移民法が改正され、出身地や民族による規制がなくなり、平等に移民できるようになった。これ以後アジア系の移民が増加し、さらに多様化が進むことになる。
1969年、公用語法(The Official Language Act)を制定し、英語とフランス語を、カナダの対等な公用語として定める(公用二言語主義Official Bilingualism)。
1971年、世界で初めて「多文化主義政策」(Multiculturalism)を採用。カナダは、それぞれの民族の文化や人権を認めて尊重していくことを、公に宣言した。